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僕、認知症です~丹野智文43歳のノート

医療・健康・介護のコラム

まるで別人…認知症の当事者同士、交流で自信

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まるで別人…当事者同士の交流で自信

手前の男性は当事者ですが、今では実行委員として「おれんじドア」の運営に参加しています。依頼を受けて、講演をするようにもなりました

一人でも元気になれば成功

 認知症の当事者による、当事者のための相談窓口として、2015年5月に「おれんじドア」が始まりました。

 一緒に準備を進めてきた実行委員は、全員、ボランティアです。認知症の当事者が相談を受ける側になるのは、日本中を見渡しても前例がなく、お金もノウハウもないところからのスタートでした。

 毎月第4土曜日に開くことが決まると、ビラを作って地元の地域包括支援センターなどに置かせてもらいました。初開催の数日前には、地元紙に記事が載りましたが、当事者がどれくらい集まるのかは、当日まで分かりません。他のメンバーは、「誰も来なかったらどうしよう」と気をもんでいたようですが、私は「それでもいいさ」と気楽に構えていました。

 たくさんの人に参加してもらうのが目的ではないのです。たった一人でも、目の前にいる認知症の人を元気づけることができたなら、この取り組みは「成功」だと思っていました。

「当事者第一」でゆるく運営

 実際に始めてみると、少ないときは2~3人、多いときは5~6人の参加がありました。きっかけは様々で、知人や医療・介護関係の職員から聞いたという「口コミ」が一番多いのですが、新聞やネットの記事で知ったという人や、中には「宮城の認知症をともに考える会」のサイトを見て、県外から連絡してくる人もいます。

 元気になってもらうのが目的ですから、細かい決まりは作らずに、ゆるくやっていくことにしました。当事者はもちろん、実行委員会の方も参加は自由なのです。つまり、当番は決めずに「来られる時に来る」というスタイルなのですが、それでも毎回ちゃんと集まってきます。

 一つだけ、必ず守ってきたのは、「当事者のことを第一に考える」ということです。家族が相談できる場所は、他にもあります。でも、認知症の当事者が自分の気持ちを話せる場所はなかったから、おれんじドアを作ったのです。ですから、「当事者中心」とすることだけは、最初から決めていました。

話すのも話さないのも自由

 当事者同士の会話では、私が司会役を務めることが多いのですが、進め方も特に決めていません。これからどんなことをしたいと思っているかということや、前はどんな仕事をしていたかなどを聞きます。若い頃やっていたスポーツの話題などは、けっこう盛り上がります。自分の経験を気負わずに語る時は、口がなめらかになるのでしょうね。

 相談窓口といってはいますが、実は、「何に困っているのか」をこちらから聞くことはありません。話すのも話さないのも自由で、本人のしたいようにしてもらうのです。

 例えば、私が、薬の飲み忘れを防いだり、スケジュールを管理したりするためにどんな工夫をしているかという話をすると、他の人も「自分はこうしている」と語り始めます。そのうちに「実は、こんなことで困っていて」と、自然に悩みを打ち明けてくれます。

 一方、付き添いの家族は、相談したいことがたくさんあるようです。実行委員会には専門職が集まっているので、制度のことなど、具体的なアドバイスを行うようになりました。

 当事者と家族が分かれてテーブルにつき、それぞれ別の会話をしながら、互いの様子も感じ取ることができる。そういう形が、いつの間にか定着しました。

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丹野智文(たんの・ともふみ)

 おれんじドア実行委員会代表

 1974年、宮城県生まれ。東北学院大学(仙台市)を卒業後、県内のトヨタ系列の自動車販売会社に就職。トップセールスマンとして活躍していた2013年、39歳で若年性アルツハイマー型認知症と診断を受ける。同年、「認知症の人と家族の会宮城県支部」の「若年認知症のつどい『翼』」に参加。14年には、全国の認知症の仲間とともに、国内初の当事者団体「日本認知症ワーキンググループ」を設立した。15年から、認知症の人が、不安を持つ当事者の相談を受ける「おれんじドア」を仙台市内で毎月、開いている。著書に、「丹野智文 笑顔で生きる -認知症とともに-」(文芸春秋)。

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