てんかんと大麻──少年サムにもたらされた希望

子どもが病に冒され、その病が現代医療では治療の見込みがないとわかったとき、その親が「違法」な治療を選択することをいったい誰が責められるだろうか? てんかんを患う息子のためにその一家は絶望の向こうに「大麻」という希望を見出した。医療をめぐる規制と金と、愛の一部始終。
てんかんと大麻──少年サムにもたらされた希望
PHOTOGRAPHS BY by ELINOR CARUCCI

この子はサム。わたしの息子だ。てんかんを患っていて、1日に100回もの発作を起こしていた。そんな日々が7年も続き、もはや打つ手はなくなっていた。ただ、最後の望みがひとつだけあった。治験も行われていなければ効果の実証もされていない治療法だ。

この薬には、さらに大きな問題がひとつ。この国では“違法”、なのだ。

アメリカからイギリスへ、大麻という「特効薬」を求めて

病院では、薬剤師がカウンターの端から3本のビンを滑らせた。妻に受け取りのサインを促した薬剤師はこう言った。

「これまでに処方した薬の数は記録されていますし、どれだけ服用したかもわかります。国外に出るときは未使用分を返却すること。この規則を破ったら、医師はもちろん薬を提供している企業にもすべてわかるのですからね」。妻のエヴリンは、うなずいてその茶色いガラス瓶をカバンにしまった。

妻と11歳の息子サムは時差ボケに苦しんでいた。この前日、2012年12月19日にサンフランシスコからロンドンに飛んできたばかりで、いまは出発から30時間が経過し、時刻は午後7時を回ったところ。2人は午前中からグレート・オーモンド・ストリート小児科院に来ていて、サムは脳波と血液の検査と、医師による診察を受けていた。脳波検査のときに塗られたジェルが髪に残っていて、サムはイライラしていた。そして、エヴリンは恐怖を感じていた。

2017年5月に16歳になるサム。最初にてんかんの症状が確認されたのは、4歳半のころだった。

その薬で、サムが死ぬことはないはずだ。とはいえ、展望は決して明るくない。薬には大麻の成分が含まれている。人類は何千年も前から、大麻を医療用として吸ってきた。その成分、カンナビジオール、別名CBDは、麻薬ではない(吸った人を“ハイ”にする成分はテトラヒドロカンナビノール、別名THCだ)。それでも、米国の麻薬関連法によって、薬に含まれる純度と濃度のCBDを入手するのは米国ではほぼ不可能だった。

この薬を試す許可を得るまでに、実に4カ月の期間がかかった。2つの大陸をまたいで、医師や製薬会社の幹部と電話やメールを繰り返した。その末に、製薬会社はサム専用の薬をつくることになったのだが、この薬によってサムが嘔吐するのか眩暈を起こすのか、発疹が出るのか、それとも別の喜ばしくないことが起こるのかは誰にもわからなかった。わたしたちは、実験台のネズミとして、我が子を託したのだ。

もう1つ、大きな疑問があった。そもそも、その薬は効くのだろうか?ということだ。そんなことすら、誰にもわからなかった。それでも、エヴリン、サム、サムの双子の妹ベアトリス、エヴリンの姉のデヴォラを含め、家族総出でロンドンまで出かけたのは、それまでに試した20の治療がすべて失敗に終わっていたからだった。

ひとつだけ、確実なことがあった。それは、この治療が決して安くは済まないということだ。この訪問を実現するために、サムの主治医をサポートするコンサルタントには何万ドルもの大金を支払ってきた。それですら、ようやくスタートラインに立っただけにすぎない。最良のシナリオは、薬が効いて、その後その米国への輸入が認められることだ。しかし、これまでの経験からすれば、その“冒険”が成功する見込みはない。大麻をベースにした実験中の薬を輸入するには、我が家の住所とFedExのアカウント番号を製薬会社に教えるだけでは済まないのだ。

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いまだ謎多き、てんかんという病

健康な子どもをもつ親には、わたしたちが取った行動はとても想像できないだろう。マイホームでもマイカーでも大学の授業料でもなく、治療に何万ドルもの大金を支払うなんて。そして、それがどんな治療であれ、それを初めて受ける子どもとして我が子を差し出すなんて。

しかし、サムは健康な子どもではなく、4歳半からてんかんを患っている。ありとあらゆる治療を試した。静注免疫グロブリンを使った自己免疫治療や高脂肪食療法も試した。それらはほとんど効果がなかったし、ある程度の結果が出たとしても、長続きしないか厄介な副作用があるかのどちらかだった。

サムの病気は、てんかんと聞いて多くの人が連想するようなものではない。地面に倒れてピクピクとけいれんするような大きな発作を起こすタイプではなく、5〜20秒間、部分的に意識を失う「欠神てんかん」と呼ばれる、治療が難しいタイプのてんかんだ。放っておけば、1時間に10〜20回もの発作が起こる。つまり、3〜6分に1回のペースだ。発作は時として、1日100回を超えることもある。

イギリス行きは

最終手段とも
いえるものだった。
新しい薬が
発作を抑制
してくれれば、
彼はほかの
健康な子どもと
同じように成長し
一人前の
幸せな大人に
なれるはずだ。

わたしから見れば、発作を起こしたサムは、まるで一時停止しながら再生される映画のようだ。とつぜん動きが止まり、宙を見つめる。上半身がわずかに前傾し、リズミカルに揺れる。それが終わると、何ごともなかったかのように活動を再開するのだ。発作前、彼が歩いていたならば、(発作後)再び歩き始める。学校の準備をしていたなら、それを再開する。サムに言わせると、彼自身も発作に気づくことがあるという。ただ多くの場合、それに気づくのは、周囲のすべてが少しずつ変わっているのを知ったときだそうだ。

会話もままならないし、学校での勉強となればなおさらだ。スポーツなどはもってのほかで、まだ小さな子どもだというのに、中断することなしには泣けさえしない。膝をすりむいて15秒間泣いたと思ったら、15秒間発作を起こしたあとで再び泣くといった具合だ。以前、DVDで映画を観たときには、盤面が傷だらけだったと文句を言ったことがあるが、実際にはそうではなかった。彼があまりにも多くの発作を起こしたため、途切れているとみえていただけだったのだ。

サムは、大した効果もない抗てんかん薬を試すたびに、副作用に耐えてきた。手の震えやじんましんに苛まれ、ゾンビのようによだれを垂らしたり、皮膚の穴から虫が這いだす幻視などに苦しんだりしたのはその一例でしかない。これまでにわたしはもう、彼の発作を何万回も見てきた。慣れるかと思うかもしれないがそんなことはなく、発作のたびに恐怖を覚える。まるで逆らえない力に彼の体が乗っ取られたかのような感覚で、彼を守るべきわたしは無力なままだ。

サムが11歳になる2012年には、学校に通える程度に発作を抑制する方法は、コルチコステロイドの大量投与ぐらいしか残されていなかった。コルチコステロイドは、体内にある抗炎症性化合物を人工的に合成したもので、1〜2週間の使用であれば命を救うこともあるが、長期的に使用すれば、体はめちゃくちゃになってしまう。

このロンドン往訪前には、コルチコステロイドの一種、プレドニゾンの大量投与を断続的に1年間続けていた。その影響で、体重は13kg以上も増えていた。顔はポンプで空気を注入したかのようにパンパンだった(「ムーンフェイス」と呼ばれる副作用だ)。免疫系もボロボロだった。毎月のように、鼻風邪や咳風邪をひくようになっていた。このまま大量投与を続ければ、発育不全、糖尿病、白内障、高血圧になってしまうだろう。

だから、イギリス行きは最終手段ともいえるものだった。新しい薬が発作を抑制してくれれば、彼はほかの健康な子どもと同じように成長し一人前の幸せな大人になれるはずだ。しかし、医師が知る限りにおいては試せる薬物療法も治療もない。おそらく、1人で生きることすらままならないだろう。

サムを襲う発作は1回20秒程度と短い。しかし、1日に100回もの発作を起こすことがあった。

サムの状況は決して特別なものではない。アメリカ人のおよそ1パーセントがてんかんもちで、そのうち3分の1は薬物療法で抑制できずにいるという。つまり、アメリカには300万人のてんかん患者がいて、うち100万人は発作をコントロールできていないという計算になる。てんかんは、パーキンソン病や多発性硬化症よりも蔓延している。過去25年間で、10以上の抗けいれん薬が発売された。抗てんかん作用に伴う副作用は減っているが、新薬の発作軽減効果が著しく高いかどうかはまだ証明されていない。サムのような難治性のてんかんの症例数は、ここ数十年で有意には変化していないのだ。

発作性疾患には数十種類ある。糸の切れたマリオネットのように倒れ込んでしまうもの、一方の腕や脚がけいれんを起こすもの、脳に障害をもたらすもの。5分間以上の発作が続く救急救命室頼りの「てんかん重積症」では、年間1万人以上が亡くなっている。

この発作の原因と対策を最新の医学に求めようとするのは当然のことだが、少数の例外を除いてそれは不可能だ。現代医学は切断された指をくっつけたり機能しなくなった心臓・肝臓・腎臓を置き換えたり、シャーレの中で皮膚を再生することも可能にした。しかし、脳の異常にはいまだに謎が多く、ほとんどわかっていないのが実情だ。

確認されているほとんどのてんかん症例は、サムと同様の「特発性」と呼ばれるもので、つまりは「原因不明」ということだ。「はじめの3つの薬剤で発作をコントロールできれば、おそらく発作はもう起きない。そうでない場合、未来は期待できない」とはよくいわれるが、サムの双子の妹ベアトリスは、2010年に欠神てんかんを発症した。しかし、最初の薬で発作はなくなった。彼女はその薬を2年間服用し続けた結果、それ以来、発作は一度も起きていない。

「てんかん発作時の脳波」を音楽化(動画)

てんかんをはじめ、脳に由来する病の原因はいまだ解明されていないことが多い。スタンフォード大学では、脳波をリアルタイムで音に変換する「脳の聴診器」とも呼べるアプローチが行われている。(2013年10月3日公開記事)

医学誌に掲載された記事を読んだことがきっかけで、サムの母エヴリンは大麻ベースの薬をつくる英製薬会社に助けを求めた。

かくして「大麻」にたどり着いた

エヴリンとわたしが大麻によるてんかん治療について話すようになったのは、2011年6月初めころだと記憶している。2年続けていた高脂肪食療法は、すでに効果がなくなっていた。もはや、従来型の抗てんかん薬に試せるものはない。

解決策を模索するうちに、エヴリンは、主治医の1人が業務外でとある“大麻グループ”を始めようとしているという情報をつかんだ。彼らの目的は、症状のひどい子どもを助けることだという。グループには、わたしたちも面識があるてんかん患者の親たちも参加していた。この情報を教えてくれた看護師は、西洋医学以外だけでなく漢方にも精通していた。彼女によると、大麻を「吸う」のではなくオイルベースのチンキ剤として摂取することで、手におえない発作も抑制しうるという。彼女は、1981年に学術誌『The Journal of Clinical Phrmacology』に掲載されたカンナビノイドの抗てんかん作用に関する論文を送ってくれた。また、この使い方であれば、多量に含まれるCBDに比べてTHCは微量で、意識がもうろうとすることもないとも教えてくれた。

エヴリンもわたしも、すぐにそのグループに入ろうとは思わなかった。それより先に、まだ試したいことが2つばかりあったのだ。コルチコステロイドと、静注免疫グロブリンだ。それに加えて、西洋医学を捨てれば、わたしたちには“宿題”が増える。製薬会社は世間から嫌われがちだが、彼らにも優れたところはある。それは、あらゆる錠剤、液体、スプレーを、それぞれ“確実に同じもの”としてつくっているということだ。一方で、サムのてんかんを大麻で治療しようとすると、そこに信頼性、一貫性、有効性の保証はない。

サムは“新薬”を試す前に、3州4軒の病院で、6人の神経科医に診てもらった。

サムの治療に大麻を使うというアイデアを聞いたとき、わたしは馬鹿げていると思った。わたしは学生時代や20代のころ、大麻を常習していた。大麻に薬効があること、そしてカリフォルニア州では適切な書類があれば医療大麻を合法に入手できることは知っていたが、警戒せざるを得なかった。バカ騒ぎのためならまだしも、息子の深刻な病気のためにそれを使うなんて。わたしは、そんな葛藤に苦しめられた。

しかし、絶望は頑なな信念さえも変えてしまう。それから1年が過ぎるころには、わたしたちは絶望の淵にいた。静注免疫グロブリンは効かず、コルチコステロイドの大量摂取をこれ以上続けることは危険な状態に陥っていた。2012年5月、わたしたちは大麻グループに600ドルの入会金を支払った。

不確定要素は覚悟のうえだった。“植物”を薬として使う場合、その性質上、薬効は一定ではない。いい結果が得られたという親もいたが、完全に発作がなくなった例はなかった。

それでもわたしたちは、それまでの1年で、大麻によるてんかん治療がまったく馬鹿げたものではないということを学んでいた。少数ながら、CBDの抗てんかん作用を示唆する研究結果が増えていた。特にエヴリンが注目したのが、2010年に英てんかん学会の医学誌『Seizure』に掲載された論文だ。2段組みで8ページにわたるその論文には、ネズミを使った実験と過去のデータから、「てんかん治療においてCBDを治療目的で使う可能性が示唆された」と書かれていた。

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わたしたちがグループで初めて試したチンキ剤は、研究結果を裏付けるものだった。それまで1時間に10〜20回起こっていた発作が、3日間にわたって1時間に1回程度に減ったのだ。チンキ剤は奇妙な見た目をしていた。茶色のガラス瓶の中で、大量の大麻の葉と茎がオイル付けにされている。1日3回、そこから注射器で1滴を取り、サムの舌に垂らす。CBDとTHCの比率は20:1とされていた。

しかしたった2カ月後の7月には、新しいチンキ剤を試し始めると同時に、発作が戻ってきた。同じ月の中旬には、発作が1時間に10回起こるようになった。摂取量を増やしたり、医療大麻を販売している3つの薬局で購入したチンキ剤を試したりしたが、効果はなかった。

不確定要素は

覚悟のうえだった。
“植物”を
薬として使う場合、
その性質上、
薬効は一定ではない。
いい結果を得られた
という親もいたが、
完全に発作が
なくなった
例はなかった。

その理由が判明したのは、翌月のことだった。最新のチンキ剤のテスト結果を受け取ったときのことだ。CBDとTHCの比率は20:1といわれていたのに、実際はどちらもほんのわずかしか含まれていなかったのだ。評判のいいサプライヤーから入手した別のチンキ剤もテストに出していたが、その比率も、10:1といわれていたが実際のところは3:1だった。グループの手法があまりにも非科学的であること、売られている商品のラベルに虚偽があることはとても腹立たしかったし、残念な気持ちでいっぱいだった。しかし、責めるべきは自分たち自身だったのだろう。わたしたちだって、自らそれらのチンキ剤を試したわけではなかったのだから。

グループを通して出会った母親の1人、神経科学の博士号をもつキャサリン・ヤコブソンは、自宅ガレージでCBD濃度の高いチンキ剤をつくると決めた。彼女の息子ベンもてんかんを患っている。彼女は、3日間の作業と5日間のテストを経て、3週間分のチンキ剤をつくる方法を確立していた。

サムは、遊園地の絶叫マシンに目がない“普通”の子どもだ。

医薬品「メーカー」に頼るということ

そのころエヴリンは、イギリスの製薬会社の社長へのコンタクト方法を探し始めていた。彼女は、『Seizure』に載っていた論文のことをずっと考えていたのだ。純粋なCBDがネズミの発作を鈍化させたという内容の論文だ。エヴリンが注目した理由は、その実験結果だけではない。謝辞には、英企業GWファーマシューティカルズ(以下、GW)の名前が挙げられていた。聞いたことのない会社だが、同研究への資金を提供していたらしい。

調べてみると、GWは医薬品グレードのTHCとCBDの抽出物を製造している会社だった。Sativexと呼ばれる薬の製造を主な事業としているという。がんの痛みや多発性硬化症に苦しめられている人向けの経口スプレーに使われている、2つの化合物の混合物を含む薬だ。『Seizure』の研究に純粋なCBDを供給したのも同社のようだった。

エヴリンは、これを天啓だと思った。CBDはサムの発作をコントロールする最後の希望だ。イギリスには、それをつくっている会社がある。そうとなれば、次なる行動は自明だった。GWの社長を調べ──その名がジェフリー・ガイであることはすぐにわかった──、連絡手段を見つけるだけだ。

エヴリンはGWの代表アドレスにメールを送った。代表電話に電話をかけ、メッセージを残した。しかし、反応はなかった。2012年8月17日、わたしたちはワイオミング州に住む実父のもとを訪れ、サムへの次なる対応を話し合った。翌朝、朝食の席でエヴリンは父にこう言った。「お父さん、もし本当に助けようと言ってくれるなら、ジェフリー・ガイとつないでくれませんか」

Warburg Pincusという会社を営んでおり、25年前からロンドンにも進出していた父は、その実現に動いた。彼はサムの状況を記したメールを複数の関係者に送ったが、その11日後、ジェフリー・ガイからエヴリンのもとへ、協力したいというメールが届いた。その日のうちに2人は電話で話し、彼はサムの治療にGW社のCBDを試すことは可能であり、どんな協力も惜しまないとエヴリンに告げた。

「もう何年も、こうした状況でCBDを使う機会を探していました。あなたがたは、特別なニーズをもつ子の親です。ほかの薬はすべて役に立たなかった。わたしたちには、助けになるかもしれない薬がある。これほどまでに善良で健全な行為が、ほかにあるでしょうか」

ただし、GWの助けを得るには、いくつかの条件があった。アメリカで薬を試すことはできない。イギリスに行かなければならない。アメリカの主治医の許可を得る必要がある。ロンドンでサムを診てくれるてんかん医を見つけ、治療とさまざまな試験の監督を頼み、同意を得ておくことだ。

もしその薬が効いた場合、合法的にアメリカに輸入するための複雑な認可プロセスを経なければならない。さらに、主治医の雇用主であるカリフォルニア大学サンフランシスコ校(UCSF)の研究倫理委員会に、病院でその薬を投与するための計画を承認してもらわなければならない。UCSFのような連邦研究助成金に依存しているお役所的組織が、果たして違法ドラッグによる治療の監督に同意するだろうか? 米国食品医薬品局(FDA)による承認も必要だ。FDAには、未承認薬を試したい個人が承認を得るための、コンパッショネートユース(人道的使用)と呼ばれるプロセスがある。その申請書は、数百ページにも及ぶと聞いたことがあった。

「クラトム」は薬か麻薬か──規制をめぐる激論の行方

米国では痛み止めや薬物中毒の治療などに使われてきた「クラトム」を、中毒性への懸念から規制する動きが起きている。痛みに苦しむ患者のために販売を許容するべきか、それとも厳格に規制するべきか、激論が巻き起こっている。(2017年2月25日記事)

さらに、米国麻薬取締局(DEA)からの認可も必要だ。当時のDEA長官ミシェル・レオンハートは、大麻に対して強硬路線を敷いていた。大麻は現在でも「スケジュールI薬物」に指定されている(これはヘロインと同等の危険性と常習性があることを意味する)。州によっては合法化の動きもあるが、国境を管理するのは連邦政府であり、国境を越えて違法ドラッグを持ち込むには、DEAによる承認を得なければならない。

同時に、気が遠くなるほどのコストがかかることは言うまでもない。ロンドンに飛んで2週間滞在し、病院代を払うだけで、何千ドルにもなる。FDAとDEAに申請書を書くのに、コンサルタントを雇わねばならない。あいにく主治医には、この手の経験はまったくなかった。彼女が遅れずに作業を進めるためには、ペーパーワークの一切を自分たち自身で引き受けるしかなかったのだ。

ほとんどのてんかん症例がサムと同じ“特発性”だ。これは、「原因不明」をしゃれて言っただけにすぎない。

ロンドン行き、サムだけのための「実験」プラン

わたしたちは、UCSFの8階にある神経科の待合室で、ジェフリー・ガイと対面した。彼は20世紀初頭のイギリスの銀行員のようないでたちをしていた。ダブルのスーツに、白襟でフレンチカフスの青いシャツ、青い水玉模様の黄色いネクタイ。エヴリンとわたしは、2012年8月末から彼とメールをやり取りしていたが、12月初めのその日はロンドンに行く前の最後の打合せの日で、詳細を検討しているところだった。

ミーティングは、サムの新しい主治医であるロベルタ・シリオとガイが話すチャンスでもあった。サムを長年診てくれていた神経科医は、その1週間前に緊急の用事で休暇に入っていた。著名なイタリア人医師のシリオは、この9月にUCSFに加わったばかりで、突然慣れない症例のど真ん中に放り込まれたことになる。わたしたちも、彼女に会うのはそれが初めてだった。

ガイについても、基本的な情報しか知らなかった。長年にわたってバイオテクノロジーに携わってきた起業家で、実験的な化合物を持っていて、それを薬として使えばサムが助かるかもしれない──。わたしたち夫婦には、その程度の知識しかなかった。

のちにわかったことだが、彼は有名な製薬会社3社を起業し、10以上の薬を世に出していた。世界中のどの経営者よりも、大麻のことを知っていた。30年以上CEOを務めるなかで、型破りという名声を確立していた。多くの経営者がしり込みするような、異論が多い医薬問題に惹かれるタイプなのだ。ガイは1990年代初頭から、大麻から医薬品をつくる会社の立ち上げを検討していた。

当時、イギリスの規制当局は、絶対にそれを認めることはないと述べたそうだ。しかし、1990年代中頃、イギリスの政治情勢が大きく変わった。裁判所は、筋痙性や化学療法による悪心などを和らげるために大麻を使って逮捕された多発性硬化症やがん患者の裁判であふれていた。政治家や活動家は、部分的な合法化を求めていた。

1998年6月にガイと共同創設者のブライアン・ホイットルがGWの創業許可を得たのち、2012年には、GWは合法的に“製薬会社の品質”の大麻研究を行う世界有数企業になっていた。ロンドン南東部の合法ながらも非公開の場所に、大量の大麻を育てる巨大な温室を有しており、植物から成分を抽出するための最新の実験室と、抽出物をスプレーやチンキ剤、錠剤などにする工場も持っていた。社員は177人いて、5,100万ドルの収益を上げていた。そして、同社初の医薬品Sativexを製造していた。Sativexはすでに、多発性硬化症の治療薬として、イギリス、カナダのほか22カ国で承認されていた。

世界が欲しがる、キューバの「肺がんワクチン」

国によって開発・使用が許される医薬品には違いがあるが、それゆえに国際的な開発コミュニティも存在する。キューバでは、独創的なバイオテクノロジーや医療の研究が行われてきた。米国の研究所はキューバの研究者チームと提携し、米国での治験実施とさらなる研究進展を目指している。(2016年3月31日記事)

UCSFの会議室でわたしたちは、計画を次のようにまとめた。

エヴリンがサムをロンドンに連れて行く。そこでサムは、彼のためだけにつくられた純粋なCBD錠を試す。純粋なCBDをてんかん治療薬として試すのは、彼が初めてではない。1978〜90年の間に4つの小規模研究が行われ、およそ40人が試している。ほかにも、自宅で混合したものを試した人はたくさんいるだろう。しかし、てんかん治療のためにこの純度のCBDを試すのは、子どもとしては間違いなく初めてであり、大人を含めても20年ぶり以上であることはほぼ間違いなかった。わたしたちは、サムはもちろん、同様の症状に苦しむ多くの患者にも薬が効くことを願った。

ロンドンに慣れたころ、治療のあまりの順調さに、エヴリンは恐怖すら感じていた。病院で1日を過ごした木曜日に68回の発作を起こしたあと、金曜日は10回、土曜日は5回、日曜日は10回、月曜日は6回だった。その後、CBDの摂取量を1日50mgから1日250mgに変えたところ、発作の回数は減り続けた。副作用はまったくなかった。

「これまでで最高の日。

ほぼ発作が
なくなったサムは、
いつもより大人っぽく、
リラックスしていて、
そして何より
楽しそう。
この状況を
見ていられるだけで、
とても幸せです」

24時間も経たないうちに発作が激減し、最初の錠剤をのんで2日後には、ハイドパークにある地上9mの「ジップライン」(ターザンロープのような遊戯具)で全長800m以上の空中散歩を楽しんでいた。サムは落ちないように安全ベルトをしていたし、もともと遊園地の絶叫マシンには目がないので、エヴリンは「ノー」と言えなかったのだ。

その段階では、まだ家族や友人には何も言わなかった。有望と言われた数々の治療が失敗に終わっていたので、効果は一時的かもしれないという不安があったのだ。しかし2012年12月28日、サムが最初の錠剤をのんで8日後、わたしたちの目の前の光景は、素晴らしいものに違いないと確信した。

エヴリンはその日、友人や親せきに対し、こんな手紙を送っている。「これまでで最高の日。今日、サムは合計3回の発作を起こしました。いずれも短く、数秒のものです。最初のころに68回だったことを思えば、すごくいい結果が出ていると言ってもいいでしょう。摂取量を増やしたければ増やすこともできます。ほぼ発作がなくなったサムは、いつもより大人っぽく、リラックスしていて、そして何より楽しそう。それがクスリのもたらす生理的効果なのか、思考が途切れないことによる結果なのかはわかりません。でも、そんなのはどっちでもいい。この状況を見ていられるだけで、とても幸せです」

その高揚感は、2週間しか続かなかった。試験の終わりが近づいたが、ガイはCBDをアメリカに持ち帰ることを許可してくれなかった。2013年1月2日、彼はエヴリンにメールを送り、会社の役員がホテルに未使用分の錠剤を取りに行くと告げた。

予期していたことではあったが、それでもつらかった。サムは人生で最高の2週間を楽しんだのに、それをもたらした薬を返さなければならない──。

いま思えば、その期間中にわたしたちが取ったのはあまりに場当たり的な行動だった。ロンドンに発つ数週間前、わたしたちはコロラド州で大麻からCBD錠剤をつくろうとしている団体を見つけていた。サムの役に立ちそうだし、同社は錠剤を送ってくれると言う。CBDとTHCの比率は18:1であることを示すテスト結果が付いていた。しかし、原材料の入手先はわからない。製造プロセスはクリーンなのだろうか。1カ月分の費用は1,000ドルを超えていたが、その時点では、ステロイドに戻すよりは賢明だと思えた。

CARUCCI ELINOR

サムは、自分のストーリーを伝えてほしいと言った。「どんな感じか、みんなに知ってもらう必要があるよね」

DEAのエージェントがUCSFのシリオのオフィスに姿を見せたは2013年3月1日のことだった。アポなしで訪れた彼らは、彼女に質問をする許可を求めると同時に、これからの会話は友好的なものにはならないと予告した。「個人的な質問をたくさんされました。出身地は? 違法ドラッグを使ったことはあるか?といったものです」。まるで犯罪もののテレビドラマに出ているような感覚だったとシリオは言う。

質問は2時間続いた。もっとも空気が張り詰めたのは、その特別な薬の投与計画について尋ねられたときだった。「わたしは、薬をこのオフィスに保管しておき、通りを挟んで反対側にあるクリニックで患者を診るときはハンドバッグに入れて持ち歩くと言いました。すると彼らは『自分が何を言っているかわかっているのか。これはスケジュールIに指定されている麻薬だ。カバンに入れて通りを歩くことはできない。オフィスに保管しておかなければならない。そして、患者への投与も必ずオフィスで行うこと』と」

特別許可の申請プロセスの一環として、シリオはあらかじめUCSFのセキュリティに説明を受け、オフィスおよび建物の施錠方法や警報装置について理解していることをエージェントに実演してみせた。しかし、彼らはこれにも満足してくれなかった。薬を保管予定のキャビネットを含め、オフィス内の家具の写真を撮ると、金庫が必要になると述べた。

政府の規制によると、金庫は「不正侵入に対して30人・分、強硬侵入に10人・分、ロック操作に20人・時間、放射線技術に20人・時間」を保証されている必要がある。つまり、一片90cm、重さ440kgの鉄製の立方体のようなものが必要だ。喩えるなら、アニメ「ロードランナー」で、ロードランナーがワイリー・コヨーテによく落としていたものに近い。しかし、わたしの人生でそんなものを買ったことはないし、UCSFがそのお金を出してくれるのだろうか? 仮に出してくれるとしても、大学の承認を得るまでに、何カ月ものペーパーワークが待っているのではなかろうか。

そんな心配をよそに、中古の金庫がすぐに見つかった。わたしが購入すればオフィスに置いてくれるとシリオは言う。UCSF側も、金庫が建物の重量制限を超えないのであれば問題ないと言ってくれた。そして1日もしないうちに、わたしはTL-15等級の青いMeilink製金庫を購入した。グループ1R規格のロックが付いたものだ。金庫はその週末、シリオのオフィスに届いた。お役所からのこの難題を回避するのにかかったコストは、2,100ドルだった。

著者と子どもたち。サムとベアトリス。

3月19日、DEAから承認が下りた。輸入許可の取得、通関手続き、本件とは無関係のシリオの海外出張などでさらに6週間が過ぎ、サムがアメリカで初めてCBD錠を飲んだのはその年の5月4日、12歳の誕生日の3週間前のことだった。

GWのCBDをアメリカに持ち込むのに、ざっくり見積もって合計12万ドルがかかった。旅費は含まない。コンサルティング会社2社(それぞれFDA、DEAのエキスパート)への出費が大半だ。外部の助けを得るにはとんでもないお金が必要で、想像の倍を軽く超える金額だった。

でも、彼らのヘルプがなければ、どうすることもできなかっただろう。シリオはサム以外にもたくさんの患者を診ている。アメリカに来たばかりの彼女には、この国の大麻を取り巻く環境の複雑さや感情がわかるはずもない。FDAとDEAに提出する書類の数は膨大で、コンサルタントが彼女に記入方法を教えた。また、手続が順調に進んでいるか、両機関への問い合わせも彼らがしてくれた。シリオに対して金庫を要求したDEAのエージェントも、わたしたちが速やかに彼らの要求に対応してからはすぐに手続を進めてくれた。シリオのオフィスに金庫が届いた日にはエージェントが同席し、DEAの要件を満たしていることを確認した。そしてすぐ、次のステップへと手続を進めてくれたのだ。

ワシントンDCの製薬起業家であるスティーヴ・ウィラードに紹介してもらわなければ、このような仕事をコンサルタントがやってくれることすら知らなかった。ウィラードはわたしの友達だが、サムも彼のことを“大人のベストフレンド”と呼んでいる。

サムは、わたしが

このストーリーを
記事にすることに
賛同してくれた。
彼はこう言ったのだ。
「どんな感じか、
みんなに
知ってもらう
必要があるよね」

今回のやり方は、命を救える実験薬の入手法として普通ではない。たとえば末期がん患者の場合、医師と企業が共同研究を進めるための仕組みが確立しているので、専門医が開発中の新薬を知ってすぐ、FDAの承認を得られる。しかし、GWが供給しようとしていたのは、アメリカでは違法の薬だ。アメリカの病院が、そんなプロジェクトに協力を申し出るはずもなかった。

それでも、わたしたちがサムのために大金をはたいたことで、医師いわく「てんかん治療の画期的な新薬になる可能性を秘めたもの」の開発が急ピッチでスタートしている。2013年初頭、わたしたちがロンドンから戻って1カ月もしないうちに、ガイとGWは、アメリカ国内の4病院のてんかん医に、重症の子供を対象とした研究を持ちかけた。1月26日には、ニューヨーク市で、医師、米国政府内外の研究者、GW役員ら15人がNYUの会議室に集まり、戦略会議が開かれた。

5つの病院の、子ども25人を対象とした初期調査の結果が有望だったため、GWは2014年、研究対象をアメリカとイギリスの50病院、患者1,400人に拡大した。ガイは、新薬にはサムにちなんだ名前を付けようと話していたが、最終的にはEpidiolexと名付けられた。現在FDAの優先審査にかけられており、3年以内に町のドラッグストアで買えるようになるだろう。

Epidiolexは、奇跡の治療約ではない。2015年4月のデータによると、137人の子どもが12週間試したところ、少なくとも発作が半分以下に減ったのは約半数で、発作が消えたのは9パーセントである。少ないように聞こえるが、実際はまずまずの反応率と言えるだろう。治験を受けた患者は皆、サムのように従来の選択肢を試し尽くしてしまった人たちだ。これで、CBD、Epidiolex、あるいはどんな発作薬も、すべての人々を救えるわけではないことが、改めて明らかになった。

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医療界ではいま、CBDによるてんかん治療の可能性が重要なストーリーになっている。2013年8月に放送された、CNNの医療担当記者のチーフ、サンジェイ・グプタの報道がきっかけだ。重度のてんかんであるドラヴェ症候群をもつ5歳の女児シャーロット・フィギが、ある種類の大麻でほぼ完治したという内容だった。

2012年に両親が実験を始めるまで、フィギは車椅子と栄養チューブが欠かせない生活を送っており、蘇生措置拒否指示が出ていた。コロラドスプリングスに住む福音主義キリスト教徒、スタンレー兄弟のグループが供給したそのオイルは、すぐに効果を発揮した。週に300回、つまり1日平均40回も起きていたけいれん大発作が、月に4回にまで減ったのだ。

この大麻ドキュメンタリーは2014年に第2回、翌15年4月に第3回が放送された。14年には『New York Times』で紹介され、てんかん治療のためのCBDだけでなく、大麻そのものの合法化について、全国的な議論のきっかけとなった。医療大麻を法律で認めているのは23州で、18州は娯楽用大麻も処罰の対象から外している。さらに4州は、娯楽用途での使用も完全に合法だ。カリフォルニアを含む少なくとも5州が、16年中に合法化のための投票を予定している。連邦議会では、連邦レヴェルでの法改正に向けた法案(少なくとも研究者が大麻の研究をしやすくするような内容)も、検討され始めている。

サムは、幼稚園で

初めて発作を
起こしたときの
記憶を語ってくれた。
「列のいちばん前に
並んでいるときに
発作が起きて、
目が覚めたら
みんなが僕に
怒ってるんだ。
それがどんな感じか
わかる?」

現在、デンバーにあるコロラド大学の神経学者エドワード・マアがスタンレー兄弟の大麻を研究している。「シャーロットのおくりもの」(Charlotte’s Web)と名付けられたその大麻の効能のデータを収集しているところだ。マアはこれまでに、14人のドラべ患者を診てきた。「シャーロットのおくりもの」はTHCの含有量が非常に低く“麻”として見なされるため、スタンレー兄弟は州を越えて出荷している。顧客は3,508人いて、そのうち3分の1がてんかんをもつ子どもだ。

同じ文脈で我が家が大麻を使い始めた4年前には、このようなことは考えられなかった。そして、サムの人生が広がっていくのを見るのは非常に感慨深いものがある。

サムは完全に発作がなくなったわけではないが、それに近い状態だ。ロンドンにいたときと同じで、1日に5回程度の発作があるが、もう2年近く、ほかの薬物療法は受けていない。現在GWがつくっているのは、Epidiolexの液体のみである。朝食時と夕食時、サムはそれを3.5ml飲む。

エヴリンとわたしはいまも、発作を完全になくす方法を考えている。サムは皮肉にも、数分に1回発作を起こしていたときよりもフラストレーションがたまっているようだ。あのころのサムは霧の中にいた。ほぼ発作がなくなったいま、ときどき襲う発作の1回1回が、以前より大きく感じられるのだろう。最近では、残りの発作をどうにかしない限り、クルマにも自転車にも乗れないことを理解しているようだ。

しかし彼は10年ぶりに──それは、実に幼稚園以来のことだ──普通の男の子として生きている。サンフランシスコの学校に、バスと電車で通学している。来年バル・ミツバー(ユダヤ教の成人式、13歳で行われる)を迎えるための勉強中だ。金曜の午後は、友だちのブライアンの家で『Halo』をやっている。夏休みに入る前は、かつて時間があったときよりも多くスポーツを楽しんだ。週に3回、フェンシングをしている。屋内サッカーチームにも所属している。1マイル(1.6km)を9分で走る。世界記録に比べれば5分15秒も遅いが、発作なしでは100ヤード(90m)も走れなかった3年前とは大違いだ。2015年の夏は、フライフィッシングやロッククライミングを楽しんだ。登校前にはよく、でたらめな歌をつくっている。

いまでは、サムは週に3回のフェンシングを楽しんでいる。

最近わかってきたことだが、サムは賢くて思慮深い子だ。クルマに乗っていると、よくこんな質問をされる。「なぜすべてにお金がかかるの? 全部タダじゃダメなの? お金なんてただの紙なのに、なんで必要なの?」「ぼくたちってどうして存在するの? ぼくたちはどこから来たの?」。ほかの子どもにしてみれば、このような質問をする年齢ではないだろう。それでもわたしにとっては喜びでしかない。わたしはこの10年の大半を、サムを心配して生きてきたのだ。こんな風に考えを組み立てられるようになるなんて、想像もできなかった。

サムは、わたしがこのストーリーを記事にすることに賛同してくれた。話を持ちかけたとき、彼はこう言ったのだ。「どんな感じか、みんなに知ってもらう必要があるよね」。そういうと、幼稚園で初めて発作を起こしたときの記憶を語ってくれた。「列のいちばん前に並んでいるときに発作が起きて、目が覚めたらみんなが僕に怒ってるんだ。それが、どんな感じかわかる?」

サムのそんな話を聞くのも、サムとの会話を思い出すエヴリンに耳を傾けるのも、どちらもとても喜ばしくもあり、同時に辛くもある。多くの人は、どんな問題が起きても親が解決してくれると思える幸せな子ども時代を過ごしてきただろう。それなのにサムは、まだ幼いうちにそうではないことを思い知らされた。早いうちに我が子にそんな経験をさせてしまったことは本当に苦しい。願わくば、それを生き抜いたことを内なる強さにして、人生の苦難を乗り越えていってほしい。

いまでもときどき思い出す。2009年に、有名なシカゴのてんかん医、ドーグ・ノールドリと交わした言葉を。彼は、サムの発作がどんなに苦しくても、決して希望を失ってはいけないと言った。それは単なる激励ではなかった。サムのような子どもが、発作を抑制できるようになった途端、驚くほどのスピードで回復する様子を彼は実際に見てきたのだ。そのときのわたしにはとても信じることができなかった。でも、いまならわかる。わたしは間違っていた。わたしはいま、その証拠を毎日のように目の当たりにしている。

PHOTOGRAPHS BY by ELINOR CARUCCI

TEXT BY by FRED VOGELSTEIN

TRANSLATION BY by TAIZO HORIKOMI