特別リポート:「17号病棟」への道、PTSDと闘う記者の手記

特別リポート:「17号病棟」への道、PTSDと闘う記者の手記
 11月15日、数々の大事件を取材し、バグダッド支局長を務めたロイターのディーン・イェーツ記者(写真)が、心的外傷後ストレス障害(PTSD)と闘う日々をつづった。イラクのティクリート近郊で2003年11月撮影。ディーン・イェーツ記者提供(2016年 ロイター/Dean Yates/Handout via REUTERS)
Dean Yates
[エバンデール(豪州) 15日 ロイター] - 今年3月初め、精神科医が最初のセッションの終わりに、心的外傷後ストレス障害(PTSD)との診断を下したとき、ついに私は自分が不調であることを受け入れざるを得なかった。
妻のメアリーは長い間、私に起きるフラッシュバックや不安感、感情のまひや不眠を心配していた。私はこうした症状を軽く見て、問題を抱えていることを否定した。だがそれから5カ月後、私は精神科病棟にいた。
ロイターの記者として、私はいくつかの大事件を取材していた。2002年のバリ島爆弾攻撃事件や、2004年のスマトラ島沖地震、2003年から2004年にかけて3度にわたるイラクへの取材、それから2007年から2008年は支局長としてイラク首都バグダッドに赴任した。
その後2010年から2012年の間は、シンガポールから毎日、アジア全体のトップニュースを仕切っていた。
アジアと中東で20年間働いた後、このあたりで落ち着こうと、2013年初めに人口約1000人の豪州タスマニア島エバンデールに家族と共に移り住んだ。自宅から、ロイターの記事を編集した。
しかし、妻メアリーの生まれ故郷である美しいタスマニアの島でリラックスするはずが、私の身体は変調をきたしていった。
以前記者だったメアリーは、精神科医との最初のセッションを前に、気がかりなことを手紙で医師に説明した。彼女にとって、このような手紙を書くことは苦痛であったに違いない。
「3年前にタスマニアに戻ってきたとき、ディーンにとってはまさに『田舎暮らし』だった。彼は多くの時間を家族と過ごすようになった。間もなく私は彼の変化に気づき始めた。大きな音に敏感になり、短気で怒りやすく、いら立っており、家庭を覆い尽くすような陰うつな空気を漂わせるようになった」
「私は彼がPTSDではないかと疑い始めた。彼は生涯忘れられないある特定のイメージがいくつかあると語っていた」
数多くの光景、音、においが実際、私の記憶に焼きついている。
バリ島のナイトクラブのがれきのなかで踏みそうになった、ちぎれた手。津波が引いた後にバンダアチェのモスクで確認した150人以上の膨れ上がった遺体。そして、2007年7月12日の朝、米軍ヘリの攻撃により、カメラマンのナミール・ヌル・エルディーン(22)とドライバーのサイード・シュマフ(40)が殺害されたとの知らせが届いたとき、バグダッド支局を貫いたイラク人スタッフの悲痛な叫び、などがそうだ。
<穏やかで理性的、決断力がある>
PTSDは1つの、あるいは複数のトラウマ的体験が原因で発症する。
PTSDになるのは兵士ばかりではない。警官や救助隊員もPTSDになるリスクがある。戦闘や自然災害に巻き込まれた市民や、性的被害者、自動車事故の被害者もPTSDになる恐れがある。
米コロンビア大学ジャーナリズム大学院のプロジェクト研究によると、仕事でトラウマになりそうな事件に繰り返し遭遇するにもかかわらず、ほとんどの記者には抵抗力があるという。ただしごく少数ではあるが、PTSDやうつ病、薬物乱用といった長期に及ぶ精神的問題を抱えるリスクがあるとも指摘している。
私は自分がPTSDになるとは露ほども思っていなかった。自分は穏やかで、理性的で、決断力があると思っていた。大規模な編集チームを束ねる責任者の役割を楽しんでいた。必要とあらば、過酷な状況を考えないようにできると思っていた。
しかし昨年、私は時々ベッドから起き上がることができなくなった。書斎で机に向かって仕事をしようとするものの、頭を起こすことがほとんどできなかった。ストレスを感じると、バグダッド支局に引き戻された。まるでずっとそこにいたかのように。私はこぶしを机にたたきつけ、壁に向かって叫んだ。
音に非常に敏感だったため、私の10代の子どもたちは何か物を落とすと動けなくなってしまった。私が部屋にいるときは、メアリーは掃除機をかけなかった。PTSDについての本を読み、私の症状について専門家と話した後、メアリーは私には助けが必要だと昨年何度か言ってきた。
だが2015年半ばに私が観念して精神分析医に会うと、彼はPTSDを除外した。知名度のある仕事を離れ、誰も自分のことを知らない田舎に移り住んだことで、アイデンティティーの危機に陥っているのだと言われた。PTSDではないと、私はメアリーに言い張った。
それから数カ月後、私の神経過敏や感情のまひ、抑えきれない怒りのせいで結婚生活が限界に達した今年3月、私はようやくPTSDとの診断を下した精神科医に会うことに同意したのだった。
<トレッキングと抗うつ剤>
エディターたちは躊躇(ちゅうちょ)なく、私に3カ月の休みをくれた。私は抗うつ剤を飲み始めた。PTSDとの診断を受けてから数週間はひどい疲れに見舞われることがしばしばあった。5月初め、私は仕事復帰を7月まで遅らせた。ストレスと不安にうまく対処するのにめい想が役立つことを期待して、5月から6月にかけて8週間の精神集中コースを受講した。
最高のセラピー、そう私が思ったのは森林を歩き回ることだった。
タスマニアの熱帯雨林で、私は探し求めていた心の安らぎを見いだすことができた。古木に触れたり、川の近くに腰かけたり、霧の立ち込めた山々を眺めたりできるトレッキングに夢中になった。問題を抱えた心を忘れ、ただ森林の空気を吸った。そのうち、タスマニアの自然やウエストコーストの歴史に関する本を熱心に読みふけるようになった。
トレッキングをしていないとき、私の心は動揺し、不安になり、独りでいたがることが多かった。6月初め、メアリーが自分と子どもたちは私の精神状態のせいでとても気を使って生活していると言ったとき、私はおりに入れられた動物のように部屋中を歩き回りながら、彼女に激しい怒りをぶちまけた。メアリーは、もし食ってかかったら殴られると思い、部屋を出たという。
6月27日、私は日記に「脳みそが『レダカン』でおかしくなった」と書いた。レダカンとはインドネシアの言葉で「爆発」という意味だ。メアリーがもし私の日記を目にしたら、怖がるかもしれないと配慮してのことだった。
翌日、私はエディターたちにメールを送り、あまりにストレスを感じるため、仕事を再開できないと伝えた。精神科医も同意見だった。
7月、私の症状は悪化した。ひどいうつ状態に陥ったのだ。まるで霧のなかで生活しているように頭がぼーっとしていた。悪夢も一段とひどくなっていた。最も恐ろしい夢は、武装勢力に追われ、バグダッドの街を走り回っているというものだった。メアリーによれば、就寝中に私の足は、まるで走っているかのようによく動いていたという。眠れるように、私は鎮痛剤のパラセタモールとコデインを服用していた。飲酒もひどくなっていった。ただベッドのなかで終日過ごす、という日もあった。
ナミールとサイードの9年目の命日が近づいたころ、私は2人について、そして当時バグダッド支局長としての自分の行動について深く考えるようになっていた。メールを読み返し、彼らの死を十分に調査したか自問していた。特に、事件から3年後の2010年にウィキリークスが公開した米軍の機密ビデオについて考えていた。そのビデオには、ヘリから銃で彼らが殺害される様子が映し出されていた。
事件は2007年7月12日の朝に起きた。私は支局にいて、いわゆる「デスク」の仕事をしていた。突然、エントランス付近から悲痛な叫び声が2階建てのオフィスに響きわたった。すぐに何か恐ろしいことが起きたのだと私は悟った。伝えにきた同僚の苦しげな表情を今でも忘れない。別の同僚は、2人が殺害されたことを私に通訳してくれた。
外見的には冷静さを保ち、同僚を慰め、米軍に対応して事件の原因を突き止めることに集中しようとしていた。2人が亡くなる前日には、ロイターのために通訳してくれていたイラク人がバグダッドで銃弾に倒れていた。彼が仕事に現れなかったことで、数日たってようやく彼の死を知ったのだった。(通訳者の両親は名前を明かさないことを望んでいる)
私の内面は、今にも崩れんばかりだった。
ナミールとサイードが亡くなってから数日後、私はノイローゼになったようだった。嘆き悲しむにつれ、支局長を辞任するのが最善の策だと思った。あまりにもストレスがかかり過ぎていた。自分より強い誰かが引き継ぐべきだったが、私はそのまま仕事を続けた。
2010年4月5日にウィキリークスがビデオを公開したとき、私はタスマニアで休暇中だった。誰よりも状況をよく知っていると分かっていながら、この世界的な大ニュースに取り組むのを社内の他の誰かに委ねることになり、私は自分を臆病に感じていた。同ビデオは何百万回も視聴された。
6年以上も悩まされ、私はバグダッド時代の同僚にどう思っているか聞いてみた。全員が、私はできる限りのことをやったと言った。だが、罪と恥の意識が消えることはなかった。
7月後半、私はメアリーにどうしても安らぎが欲しいと伝えた。彼女は私に、精神科の病院ですぐにでも治療を受ける必要があると言った。彼女は「どん底にたどり着いた」と語った。
<17号棟>
それから2週間後、私はメルボルンにあるハイデルベルク・レパトリエーション・ホスピタルのPTSD患者が集められた17号棟のガラス張りのドアの前に立っていた。
私は不安で、自分を無力に感じていた。越えてはならない一線を越えようとしており、精神科病棟に入院するのだと。
「もっと健康になれるだろうか」。メルボルン行きの飛行機に乗る朝、私はこう記した。「もっと賢く、もっと自制がきくようになれるだろうか。家族のために『絶対に』そうならなくては」
入院受付は食堂の隣にあった。入れ墨に覆われた白髪交じりの男性たちが昼食を食べ終えようとしていた。皆、目の下にくまができている。
看護師が私の部屋に案内してくれた。アルコールを所持していないか、荷物をチェックしていいかと聞かれた。私が持ってきた薬を取り上げ、スタッフが時折、抜き打ちで呼気検査をすると言った。もうラムコークが飲めないのか、と私は思った。
17号棟は20部屋あり、オーストラリアの兵士を治療してきた長い歴史をもつ。
私がここに5週間入院した間、ベトナム、イラク、アフガニスタンでの戦争経験者や東ティモール紛争に参加した人たち、警察官や刑務官、そして運悪く犯罪に巻き込まれた一般市民とも一緒だった。施設は施錠されないが、患者は短時間でも病棟を離れる場合は名前を記入しなければならなかった。週末の外泊は許可されていた。
入院した翌日、担当医と2時間のセッションを行った。自分にとって最大の問題は、ナミールとサイードの死に対する罪の意識だと伝えた。支局長として、彼らの安全に責任があったと。そして、ウィキリークスが公開したビデオをめぐる取材を自分が主導しなかった恥ずかしさがあると。
セッションが終わりに近づくと、精神科医は私がトラウマを合理的に分析しようとし過ぎており、感情を十分に吐き出していないと言った。まるで他の誰かについて語っているかのように、私が自分の経験を話していた、と。インドネシアでの爆弾攻撃や津波の取材といったイラク以前のトラウマについては、少し和らいでいる、とも彼女は指摘。PTSDとの診断を下して、私が蓄積されたトラウマを抱えており、うつ病にかかっていると語った。
私は部屋に戻ると、どうやって感情的に対処すればいいのだろう、ただ泣こうとすればいいのか、などと思った。
入院中、ソーシャルワーカーと定期的に面談し、私の感情のまひや、それが結婚生活や子どもたちとの関係をどのように傷つけたかについて話し合った。入院する際に私が書いた目標の1つは「かつての夫と父親だった自分を取り戻す」ことだった。
<リフレクソロジーと「ジェイソン・ボーン」>
グループセッションは、うつや不安、怒りをコントロールし、感覚に負荷がかかり過ぎることにうまく対処する方法など、PTSD治療の基本を網羅している。精神性や心の集中、リフレクソロジーやアートセラピー、クッキングのクラスまである。
私は多くのことを他の患者から学んだ。一部の人は17号棟に入院するのは初めてではなかった。私は記者だが、垣根はすぐに取り払われた。重要なのは、自分が同じPTSDを患う者だということだった。騒音や人混みが嫌いで、人との関係に問題があるというように、他の患者が私と同じような症状があると言っているのを聞くことは効果があった。また、気分が明るくなるひとときもあった。
入院して最初の週末、私は近くの映画館で人気シリーズの最新作「ジェイソン・ボーン」を見ようと思った。だが向かう途中、私は病院に引き返した。映画館が混み過ぎているかもしれないことをなぜか忘れていたのだ。そのことを後で若い看護師に話すと、彼は私を見てこう言った。「もうちょっと高尚なものを見るのかと思った」と。記者もハリウッドのアクション映画を見るよ、と私は答えた。
17号棟に入院した1日目から、私はPTSDや、戦争が兵士や記者や市民に及ぼす影響に関する本を読みあさった。日記も毎日つけていた。
時が経過するにつれ、私は自分が改善していると感じるようになった。
8月28日、私は自分の治療チームにこのようなメモを書いた。「ウィキリークスがあのビデオを公開したとき、私には勇気がなかった。あぜんとし、ショックを受けたが、他の誰かにそれに対応してほしいと思った。他の誰かの問題だが、自分の問題とすべきだった。この気持ちとうまくやっていかなくてはならない」
退院まであと1週間となった9月初め、担当医から17号棟で達成したことを書き出すよう言われた。自分が作成していたリストには、メアリーと正直に向き合うこと、ナミールとサイードの死に関連する自分の行動を受け入れられるようになること、不安とストレスをコントロールするテクニックを身につけること、とあった。
退院にあたっての目標は、帰宅してから当初の期間について現実的な期待をもつこと、ストレスのレベルを管理すること、仕事には徐々に戻ること、アルコールは飲まないことだった。また毎週、心理療法のセッションを受けることになった。
いよいよ9月16日に退院した。家に戻れた気分は何とも素晴らしかった。家族との絆を再び取り戻すと心に決めていた。タスマニアはメルボルンと比べると、とても静かだった。
<1歩後退>
17号棟を出る前、私の治療チームは、回復のペースについて2歩進んで1歩下がると教えてくれた。
9月23日は、まさに「1歩下がった」日となった。
私は近くの町ローンセストンで、メアリーが迎えにくるのを待っていた。そのとき、公立図書館近くで警報が鳴り響いた。「緊急事態。避難下さい」と、その録音された音声は告げていた。冗談だろ、と私は思った。ヘッドホンは持っていなかった。放送は10分も続いた。落ち着け。深呼吸しろ。
午前半ばごろに帰宅すると、私はベッドに舞い戻った。そしてマイケル・ハー氏の「ディスパッチズ─ヴェトナム特電」を読み終わった。登場する記者たちの行動は、私にイラク時代を思い起こさせた。私は彼らに比べると弱虫だった。
遠足に出かけた娘を2時ごろに迎えに行くため、ベッドから這い出た。帰宅すると、飼っている犬が下痢をして、どっさりとフンが床にあるのを発見した。ひどい悪臭を放っていた。私は自分のバランスが崩れ始めるのを感じた。
これもまた、ベッドに戻る良い口実となった。
すると今度は庭師が芝刈りにやって来た。6カ月ぶりなので、芝は伸び放題だった。庭師は芝刈り機ではなく、大きな草刈り機を取り出した。その音は、バグダッド上空を飛んでいた偵察ヘリを思い出させた。私は頭痛がし始めた。
17号棟から退院して1週間が経過していた。蜜月期は終わったのか。私は自分に問いかけた。再び孤立し始めていると感じた。メアリーに今日は「1歩下がる」日だったが、それよりも悪い感じがすると伝えた。彼女が案じているのが伝わってきた。
翌日もひどい気分が続いていたが、めい想するため仏教寺院を訪れた。45分ほど座禅を組んで起き上がると、エネルギーが戻っているのを感じて驚いた。
そして私はこの記事を書き始めた。書くことには精神を浄化させる作用がある。17号棟での最初の日々では、セラピーを受けている間、貧乏ゆすりが止まらなかった。不安の表れであったのだろう。だが書いていると、それは止まったのだ。
(翻訳:伊藤典子 編集:下郡美紀)

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