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思想としてのエビデンス主義

エビデンス主義は、実証的根拠となる実験や観測について、決定論ではなく、確率的現象として記述する。例えば、Aという現象の後にBという現象が起った頻度をカウントし、95%の確率で起ったならば、AとBの間に統計的に有意な相関関係があると見なすことになる。しかし、これは確実にAがあればBがあるというのではなく、確率の信頼度にしかすぎないのである。世界を偶然的現象と見なし、その確率を記述することで、現象を解釈しようとしているだけなのである。一方、厳密な意味での決定論に基づく自然法則というのは、偶然性の支配する確率論の世界では存在しない。そもそも、決定論の世界では、確率は意味をなさない。確率論は、世界の偶然性に対する一つの数学的処理なのである。そして、単に確率的現象にしかすぎない仮説を真理へと一般化するための社会的装置がエビデンス主義である。エビデンスがあれば、真理であると人々は錯覚するのである。確率論に基づくエビデンス主義においては、因果関係や相関関係を確定することは究極的に不可能である。不可能であるからこそ、真理の対応説を放棄し、真理の合意説に身を委ねるしかない。要するに、ある一定の確率で起るのなら、その現象を科学的事実と見なしましょうという合意に委ねられることになる。合意であるからには、すでに自然現象ではなく、社会現象であり、様々な社会的要因が混ざり込み、時には強引な解釈もなされることになる。つまり、科学的事実は、エビデンス主義によって社会的に構成されているのである。例えば、医薬品の臨床実験における治療効果の確率も、世間の人々から見れば多少低くても、製薬会社の意向などを受けて、強引に統計的に有意だと解釈されることになる。どこからどこまでが有意であるかの線引きは究極的に合意=人為である。科学的事実が確率的現象にしかすぎないのなら、科学的事実を採用するかしないかは、本質的にギャンブルと同じてある。このギャンブルに乗るか乗らないかは、これまた個々人の自己選択となる。正しく子宮がんワクチンの論理である。エビデンス主義は、学問ではなく、一つの思想である。世界を確率的現象だと見なし、無数にある確率的現象のうち、人間にとって有意味や有用な確率で起る現象を科学的事実として真理化する思想なのである。エビデンス主義が、後期近代社会に適合的な思想であるかは、これからの分析を待たないとわからない。2013.6.23 社会学玄論

編集部